【教育移住】世界のどこでも生きていける力をつける教育を授けたい

2020.02.25-- 最終更新日:2020/02/25

娘のフィリピンでの教育(小学4年生から中学3年生)が丸6年になります。

私の場合は「教育移住」という訳ではなかったのですが、娘を連れて移住する以上、当然娘の教育も重要な課題となりますので、当初、フィリピンでの娘の教育方針を立てました。

教育方針なんていうとなんか教育パパ的な(笑)なんかガミガミうるさい感じに聞こえないこともないこともないのですが、実はそんな大げさなことではないんですが・・・。

特に勉強しろとうるさく言う訳でもありませんし、逆に放任主義に近く、特に誇れるような教育方針という訳でもないのですが、親子留学や教育移住など、海外での子育て、教育を選択される方が多くなってきている現状を踏まえ、私の娘の教育に対する考え方をシェアさせていただきたいと思います。

教育の意味を考える


親心として自分の子供には幸せになってもらいたいと願うのはごく当たり前のことですよね?

ただ親が考える幸せと子供たちが感じる幸福の形は必ずしも一致するとは限りません。

親が望むものと子供たちが望むものももちろん違うはずなんですね。

その子供たちが望むものを自ら見つけだし、それを手に入れる、実現するための術を身に着けさせることが教育であり、親がすることはその道筋を立ててあげることだと私は考えています。

教育の目標と成果

よく教育のゴールとして、このような目標が挙げられますよね?

・優秀な学業を修める
・有名大学に入学する
・医者や弁護士になる
・一流企業に就職する

これは、日本、フィリピンでももちろん当たり前のように考えられる教育の目標でもあります。

ただ私の娘に対する教育目標は「世界のどこでも生きていける力をつける教育を身に着けてもらいたい」という願いがベースになっており、このような「~になる」のような具体的な目標をタスクとして娘に課すようなことをするつもりはありません。

このような目標は往々にして親の理想や価値観から来ていますが、前述したとおり親の理想が子供たちの理想と必ずしも一致する訳ではなく、逆にこのような目標をタスクとして課してしまうと、娘の自主性をそぐことになりかねないと思っているからです。

もちろん、「世界のどこでも・・・」という目標には、学業、仕事、生活が当然含まれるわけで、そのための語学や素養、教養、そして知識やスキルをどう授けるか?が娘の教育に対するテーマであり、私の持てるリソースを最大限に活用してその道筋を立てるということが私の教育方針なのです。

つまり、親である私や妻の理想や常識、価値観をできるだけ排除し、フラットな状態で彼女自身で自らの道を選択し人生を切り開いていける術を授けたいのと思っているのですね。

こんな風に言うとなんかすごい理念を元に真摯に教育に取り組んでいるかのごとく聞こえますが、実際は日本とフィリピンの教育のメリット、デメリットを天秤にかけたうえでどちらが教育目標を達成しやすいかという皮算用に基づいているだけなんです(笑)

冒頭でも述べましたが、所謂教育パパゴン(笑)のように、娘に無駄に圧力をかけたり、タスクを課したり、塾やチューターを雇うなど極端なことは実は一切してはいません。

基本は娘の自主性に任せる放任主義でもあったりします(笑)

日本社会と学校教育に対する疑問


フィリピン移住を検討する際、もちろん一番考えたのは娘の教育問題ですが、実のところ移住した当時は娘の教育問題は全く白紙の状態でした。

フィリピンの教育システムや概要的なことはもちろん理解していましたが、「日本の教育の方が優れている!」と娘の教育を問題視する友人に論理的に反論できなかったのも事実です。

フィリピンとの関わりは20年超、その間フィリピンの社会や格差、貧困問題、フィリピン人のマインドなどをまざまざと見てきましたが、経済や物質的な豊かさを前提とした場合、日本より優れていると思われる点などは全くありませんでしたしね。

ですが、私にはどうしても娘を日本で育てたくない理由があったのです。

それは、日本の教育は、私の教育目標である「世界のどこでも・・・」を達成するどころか、阻害要因にしかならないということです。

躾という名の同調圧力

まず一つ目の理由が日本の常識と日本社会の同調圧力です。

横並びを良しとし、「出る杭は打たれる」

自分で考える力、主体性を育む教育姿勢はなく、よく言われる思考停止状態に追い込まれる日本の社会、教育です。

これは学校教育に限らず、社会、家庭内でも普通に起こります。

躾という名を借りた同調圧力ですね。

「あなたのためだから」という言葉は、日本では普通に社会、学校、親、友人たちから出てくる言葉です。

ただこれが本当に「あなたのため」であった試しがない。

要はそれを発する側に都合よく従わせるための意味しかないにも関わらず、このようなことを平然と躾と称して圧力をかけるのが日本の社会なのですね。

これは私が子供の頃、まだ唯一アジアで目覚ましい経済成長を遂げていた頃の日本では良かったかもしれません。

当時はその横並びでも普通に就職ができ、給与水準も決して悪くはなく、社会、会社の方針に盲目的に従っているだけでも、普通に家を買い、車を買い、余暇を楽しみ、老後は年金で過不足なく暮らせる人生があったからです。

ただ現状は全く違います。

少子高齢化が進む日本の将来は決して明るいものではなく、盲目的に社会に従って生きているだけではじり貧に追い込まれるだけ。

フィリピン移住から既に8年が経過していますが、移住当時からなにか改善や将来への展望に明るい兆しどころか、年々自体は深刻化、今現在若い人たちですら四苦八苦して生活している状況しか見えてきません。

私が8年前に移住を決断した理由のひとつが、娘が大人になった時には日本で幸せに暮らす人生を見出すのは難しいという判断でした。

いじめ問題

二つ目の理由は、日本の女性蔑視、差別、そして学校でのいじめ問題です。

特に学校のいじめ問題は昨今突然始まったものでもなく、私が子供の頃でもありましたが、現在では子供たちが自殺に追い込まれるような、もはやいじめという言葉では済ませられない事例も数多く出ているにもかかわらず、依然として日本の学校、社会、教育者を含め無策と思わざるを得ません。

ただでさえいじめ問題に巻き込まれるリスクはどの子供にもあるというのに、娘はフィリピン人のハーフです。

外国人とのハーフが日本の学校でどのように見られるのか?社会に出てからどのような扱いを受けるのかは散々見てきましたが、もはやいじめ問題というより人権問題なのですが、ここにメスが入ることはまず考えられません。

もちろん、この問題に立ち向かっている方々も多くいることは知っていますが、娘をこのいじめ問題から守り切れる確証が得られない、子供を守れない社会で娘を育てられないというのが2つ目の理由です。

英語を含めた国際化教育の欠如

日本人が学校教育で英語を勉強するにも関わらず、英語を操ることができないということは長年問題にされてきていますが、いまだ改善される気配すらありませんね。

小学校からの必須科目にもなりましたが、英語を教育するメソッド、教員の質も確保できない、質も量も依然圧倒的に足りないという現状では、学校教育だけでは英語を操るようにはなれないのですね。

また日本では英語を習得することに焦点が置かれることが多いのですが、英語はあくまでコミュニケーションツールであり、子供たちの将来を前提とした場合は、英語を習得することがゴールではなく、英語で教育を受けることが重要で、そのためにはやはりできるだけ早い段階から英語を習得しておかなければならないのですが、この点についても日本では絶望的と言わざるを得ません。

また、国際化人材育成の気運が一向に高まらないという点も問題です。

今から10年ほど前でしょうか・・・企業の英語公用化が叫ばれ、同時にグローバル人材なる言葉が流行しました。

文部科学省ではグローバル人材を以下のように定義し、その育成に着手しようとしていました。

「グローバル化が進展している世界の中で、主体的に物事を考え、多様なバックグラウンドをもつ同僚、取引先、顧客等に自分の考えを分かりやすく伝え、文化的・歴史的なバックグラウンドに由来する価値観や特性の差異を乗り越えて、相手の立場に立って互いを理解し、更にはそうした差異からそれぞれの強みを引き出して活用し、相乗効果を生み出して、新しい価値を生み出すことができる人材。」

グローバル人材の育成について~文部科学省 >

総務省では以下のように定義しています。

「日本人としてのアイデンティティや日本の文化に対する深い理解を前提として、豊かな語学力・コミュニケーション能力、主体性・積極性、異文化理解の精神等を身に付けて様々な分野で活躍できる人材

グローバル人材育成の推進に関する政策評価~総務省 >

文部科学省の「グローバル人材育成について」では、学校教育における英語教育の改善、海外留学促進や国際拘留の活性化、内向き志向からの転換等の提言が策定されています。

この提言が策定されたのが2012年頃だと思われます。

総務省の「グローバル人材育成の推進に関する政策評価」では、各政策の進捗、成果を評価したものですが、ことごとく困難との評価が下されています。

この文書は平成29年7月(2017年)となっています。

ここで挙げられている主体性、自主性、異文化理解などの特性、そこから新たな価値を見出し様々な分野で活躍できるというグローバル人材像はまさにその通りだと思うのですが、ではこの10年ほどの間にこのような人材を育成する環境、耐性が構築されたでしょうか?気運が高まったでしょうか?

私はこのグローバル人材云々が叫ばれている頃にフィリピンに移住してしまったので、その後の日本の学校教育はよくわかりませんが、外から見ていても逆に内向き志向が加速している現状しか見えてこないのですが・・・

私が旅行代理店で海外留学事業を担当してた1997年当時、いまから30年弱前のことですが、その当時もこのような気運が高まっており、海外留学やホームステイが大流行していたのです。

その気運は数年でしぼみ、次の波がやってきたのがこのグローバル人材の頃ですね。

実はこのような国際化や英語教育などの機運の高まりは何十年周期で巡ってきてはしぼみが繰り返されている流行のようなもので固着することはない・・・というのが3つ目の理由です。

なぜフィリピン?


私が移住先にフィリピンに選んだ理由は、実は娘の教育を一番に考えた訳ではなく(大きな理由のひとつではありましたが)、私自身長年フィリピンと縁があり現地の事情にも精通していたこと、妻もフィリピン人、妻の家族のサポートが得られる、フィリピン人配偶者として永住権も取れるなどの目算があり、移住自体にそれほど多い大きな障害がなかったからです。

詳細についてはプロフィールをご参照ください。

フィリピンの教育の質

まず大前提としてフィリピンの教育水準が日本よりはるかに良い、優れているなどということを主張したいわけでもなく、事実でもありません。

もちろん日本人が、フィリピン人が優れている、劣ってるなど、それぞれの教育を受けた結果としてのステレオタイプな人としての能力の優劣を問うものでもありません。

ここで私が言う教育の質とは、「どちらの国で教育を受けた方が国際的な視野、能力を得られるか?」という成果主義に基づいて判断するものです。

もちろん上記の教育成果を前提としてフィリピンが最適などというつもりもなく、他にも優れた国はたくさんあるでしょう。

日本では「国際的な・・・」のような枕文字が入ると、往々にしてイメージされるのは欧米諸国、先進国での活躍なのですが、私はそこも娘の選択でいいと思っています。

ただ私たちの生活基盤がしっかりと構築できるというのが大前提ですので、まず娘の海外での初動教育は縁があるフィリピンでということなのですね。

もちろんフィリピンでの教育メリットを考慮しなかった訳でもありません。

それはフィリピンの英語力

フィリピンは英語を公用語としており、英語教育水準はアジア諸国の中ではトップクラスです。

ゆえにフィリピン留学が世界各国から評価されているわけですね。

英語教育だけではなく英語力自体も評価されたことから、世界各国からコールセンターやBPOビジネスが呼び込まれている実績もあります。

英語を普通に操ることができるフィリピン人たちが海外に出稼ぎに出る、メイドや建築、工場労働者、看護師や介護士、医者等、世界中で活躍しているフィリピン人たちの多さからも、そのグローバル度は日本人より高いという教育の成果も見えています。

私はこの初等教育からの英語教育の質と量単に英語力を目標とするのではなく、英語で教育を受けられる優位性、世界に出ていく障壁が日本より低いということを評価し、そこを教育の成果としたのです。

娘の教育歴

私の娘は現在15歳、日本の学校なら中学3年生になります。

日本では幼稚園から小学3年生の1学期まで在籍し、その後フィリピンに移住しました。

フィリピンでは妻の実家があるミンダナオのローカルタウンに住み、地元のプライベートチャイニーズスクールに小学4年生で正規入学、現在までの6年間をフィリピンで教育を受けていることになります。

フィリピンのプライベートスクールは、小中高一貫教育が主ですので娘も小4で入学して以来同じ学校で学んでいます。

移住当初は英語もローカル言語もできない普通の日本の小学生状態ではありましたが、フィリピンで生まれ、何度も来ているのでローカル生活への順応は問題なし。

フィリピンの教育システムの問題で移住後すぐに学校に編入できなかったため、まず事前英語学習や現地校へのオブザーバー参加で現地の学校生活に慣れてもらい、晴れて小学4年生から現在のチャイニーズスクールで正規教育スタートという流れでした。

この8年間のフィリピンでの教育成果は、まず英語力。

フィリピンのプライベートスクールは学校内公用語は英語です。

娘の学校はチャイニーズスクールですが、英語教科も毎日ありますし、英語以外の一般教科もすべて英語で行われますので、この8年間で日本の小学生から大学生までの間に勉強する英語量以上を履修していることになります。

当然英語での会話、コミュニケーション能力、読み書き含め、既に日本の大学生レベルを凌駕しているのは言うまでもありません。

ちなみに娘の現在の第1言語はフィリピンのローカル言語のひとつであるビサヤ語です。

フィリピンの国語は首都マニラがあるルソン島で使われるタガログ語がベースとなったフィリピーノ語なのですが、こちらも当然履修していますので標準的に使えます。

またチャイニーズスクールということで中国語も履修していますが、こちらの能力は親の私がわからないので判定不能(笑)なのですが、毎年年度末にもらう成績考課表でも少なくとも落第はしていないので、相応に力はつけてくれていると思います(笑)

その他の教科、正規の教育を始めた小学生当時はすべての教科書もチェックしてみましたが、特に日本の教育水準と比較して劣る点は見当たらず、むしろ世界の文化や習慣の理解、人権問題なども早くから学んでいます。

またコンピュータ教科もあり、基本操作、WordやExcel、Powerpointなどによる文書作成、プレゼンテーション、HTML/CSSなどのプログラミング基礎も学んでいます。

日本では内向き志向に加え、パソコン技能の遅れなども叫ばれるようになってきていますね。

現代社会において英語などの国際言語を操る能力に加え、社会のIT化に伴う技能、知識は国際的な舞台で活躍するためには不可欠な要素なのですが、この点についても日本はかなり遅れを取っています。

世界で唯一、日本の子どものパソコン使用率が低下している~ニューズウィーク日本版 >

この点でも既に標準的な日本の社会人よりも高い技能を身に着けることができています。

教育格差を乗り越える海外教育


教育にはお金がかかりますよね。

教育にお金をかければかけるほど質の高い教育を受けることができますが、大金持ちでもない限り、そんな大金を教育に投入できないというのが悲しい現実でもありますよ。

実は娘が通っているチャイニーズスクールはお金持ち子息が集まる学校でもあり、学費は街一番高いのですね。

お金持ちが教育にかけるお金、労力は半端なく、学校以外にも専属のチューターを雇ったり、習い事をいくつも掛け持ちさせたりと、教育にはバンバンお金をかけます。

その一方で中流以下の多勢は学費が安く、教育水準も低い公立校に通い、場合によってはその学業を完了することすらできない多々あります。

日本以上の格差社会、貧困が存在するお国柄、親の財務状況でその教育の質やレベルには雲泥の差が生まれ、それがそのまま格差社会へとつながるという循環です。

私は決して娘のクラスメート達のようなお金持ちではありませんが、街一番高い学費とは言え、日本の私立校に通わせるよりはるかに安い金額で済んでいますので、その費用対効果は非常に高いと思っています。

6月から始まるフィリピンの新年度において、娘はGrade10、日本の高校1年生になるのですが、まだ教育の結果、成果が確定された訳でもなく、むしろ基礎教育が終わった段階にすぎません。

ここまでの6年間の教育成果については、決して当地の学校で優秀な成績を収めているというほどではありませんが、日本の学校からフィリピンの学校へ転入し、言葉の問題を含めよく頑張ったと思っています。

ここからいよいよ高等教育が始まることになり、社会に出るための知識や能力を具体的に身に着けていく段階に入る訳ですが、まずは一区切りという感じです(笑)

この記事はそんな娘の教育の一区切りということで、これまでの歩みを振り返りつつ私自身、娘の教育に対する考え方を今一度整理して次のステップに臨みたいと考えたこと、その中から何か参考になることがあれば・・・という思いで書きました。

一般論としてどちらの国の教育が良い、悪いという話ではなく、また、あくまで我が家の事情や財務状況、私の個人的な主観、判断に基づいた考え方です。